DATE 2011. 5. 3 NO .
「――けほっ、けほ……」
離れは酷く静かで、咳の響きだけが耳に届く。
「……っ」
それから、一歩前を歩いていたはずの近藤さんが息を呑む音。
立ち尽くしたその人に並び、あいつが――総司がいるであろう部屋の方を見やる。
「どうした、近藤さん」
俺にも軋みが聞こえる程に食いしばった歯の隙間から、弱々しい声がぽつりぽつりとこぼれ落ちた。
「俺は……笑ってやれそうにない…!」
しばらく続いていた咳に、ふいに苦しげな声が混じる。
「げほっ……ぅ…ぐ……」
ごぼり、と。
続く音を、俺はよく知っていた。
北上に総司を伴えるとは、思っていない。
刀を持てなくなったと聞いてから――もう、随分になる。
戻って来られるかわからないから、というよりは、「あの頃」の面影を求めて、俺達は弟分の顔を見に行くのだろう。
「それでも総司は……笑うだろうよ」
――そう、「彼ら」は笑うのだ。
「あ、近藤さん!」
庭先に姿を現した俺達に気づき、総司の顔が綻ぶ。
そんな総司の姿を視界に映し、俺の方は怒鳴り声が口をついた。
「てめ…っ、んな格好で何してやがるッ!!」
縁側に駆け寄り覗き込んだ部屋に布団は無く、柱に背を預けて座る総司が纏っているのは――皆と同じように誂えさせた、総司のための洋装だった。
床上げなど叶うはずもない。それでもと本人に渡したのは俺の自己満足なのだろうし、支えになるどころか総司には酷な置き土産だったかもしれない。
ただ、どこにいようと何をしていようと、お前は新選組一番組組長・沖田総司なのだ、と。待っているからな、と。
――口で言っても、「彼ら」はわかってくれないのだから。
「なんだ、土方さんもいたんですか」
総司の声に、その既視感はかき消えて。
「なんだ、じゃねえよ! お前なぁ…っ!!」
思わず総司の肩を掴んだ瞬間、言葉も全て消し飛んだ。真新しい洋装にわずかに付着している紅よりも、掠れた声が、衣の上からでもわかる肩まわりのやつれが、問い質すまでもなく雄弁に語る。
なのに俺を見上げる総司の眼差しはただただまっすぐで、力強ささえ感じて――反射的に肩から手を離し、目を逸らした。
その時、だった。
入れ替わるように己の肩に手を感じたのは。
「近藤、さん」
そしてすぐに離れていく。
今まで黙ったままだった近藤さんが、総司の前に立っていた。
「よく…似合っているぞ、総司」
ひどい有様だった。
たったそれだけを紡ぐのにようやく絞り出された声音は、本人の目のように涙がにじみ、関節が白くなるほど握りしめた拳は小刻みに揺れている。
けれど俺の見やった横顔は、確かに笑顔を浮かべていた。
「平五郎さんに、今日は近藤さん達が来るって教えてもらって。それで、せっかくだからぜひ見てもらいたいって思ったんです」
最近はここまで来るのも命がけだ。この柴田邸の離れは静かなもんだが、一歩外に出れば新政府軍の奴らがうろうろしている。仮に俺達が捕まらずとも、不用意に出入りしていれば、抵抗できない総司や面倒をみてくれている植木屋の者達を危険に晒すことになる。日取りを前もって伝えたのは初めてのことだ。
「寝てなんて、いられませんよ」
「……あぁ」
だからって、無理をするのか。
総司の現実や近藤さんの願いに背いてまで、今ただ笑ってやれれば、それで…?
北上を決めてからも、最後まで総司の帯同を諦めきれなかったのが近藤さんだった。今だって、納得はしていても願いは捨て切れていないんだろう。久しぶりの見舞いで別れを告げねばならない――それ以前に、ただ弟分の顔を見に行くだけなのに隠れて行動しなければならない現実は、俺だって悔しくてならない。
だが総司の病状から目を逸らしてどうする。
座っているのに肩で息してんだぞ? それにあの潤んだ眼、どう見たってまた熱出してやがる。
あんたは労咳患者なんて初めて見るのかもしれねえが、俺は――
「――土方さん」
総司の声に、はっと我に返った。いつの間にか近藤さんも縁側に腰をおろし、緩く口角をもちあげた総司がじっと俺を見ている。
立っているのは、俺だけだった。
それから……四半刻ほどだろうか。
結局俺も腰をおろして、他愛無い話をしていた。
その間、総司は喀血こそしなかったが小さな咳を繰り返し、俺は何度かこいつを布団の中に押し込んでしまいたい衝動に駆られた。
総司と近藤さんの笑顔が、今にも薄氷を踏み抜いて壊れてしまいそうで、見ていられなかった。
俺が生まれる前に死んだ父、それから母と、姉と――労咳で死んでいった家族を思い出す自分に、苛立ちが募った。
「――そろそろ行くとするか」
そう言った近藤さんは、だんだん酷くなってきた総司の咳と息切れが耳に入らないかのように「笑顔」のままだった。
「そうだな。……ちゃんとおとなしくしてろよ、総司」
「はいはい」
俺達がどんなに辛気くさい面で現れようとも、総司は笑って迎えるんだろうよ、と。
余裕ぶって言った自分が一番、ひどい顔だったじゃねえか。
「近藤さん、土方さん――」
「なあ、トシ」
俺達の姿が見えなくなって、糸が切れたのか。
人が倒れ込む音がして、それから急に離れに足音と声が響き出した。
「俺はあいつに、こんな事すら満足にしてやれない……」
その喧騒から逃げるように、俺達は柴田邸をあとにする。
「総司が無理をしてでも願うのなら……あの頃のような時間を……つくってやりたいと思ったんだ…!」
近藤さんの悲痛な声と総司に似つかわしくない穏やかな笑顔は、今も脳裏に焼きついたまま離れない。
*
「……おまえが何を言っても無駄だ。もう、決めてしまったことだからな」
『僕は、大丈夫ですから』
こんな時に、何て面してんだよ。
「なあ、トシ。そろそろ、楽にさせてくれないか」
『ありがとうございました……今日は、ほんとに』
何で総司みたいな顔して――笑うんだよ。
また俺に見送らせよう、ってか。
あぁ、でも俺はきっとあの時のあんたよりひどい面なんだろうな。
俺は――笑ってなんかやらねえからな。
≪あとがき≫
斎藤ルートでちらっと触れられてた最期のお見舞いについて、好き勝手書いてみた。
最初は「変な咳」に過剰反応する副長の話だったはずが、いつの間にかどこかに飛んでったようです。
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