DATE 2009. 2. 5 NO .
支度を整えてもらいながら、鏡に映る自分を眺めながら、
綺麗になれ、綺麗になれと念じる。
だって、今日は――
「リディア様」
呼ばれて、私は我に返った。
様づけで呼ばれるのにもだいぶ慣れてきた、かな?
「なに?」
「今日、御館様にお伝えになるのですよね?」
「……えぇ」
エブラーナ風に結いあげられた髪に視線を向けたまま、私は短く答えた。
私が念じるまでもなく、支度は順調に進んでいく。
――今日は、この簪を挿してもらおう。
特別な時にと思って、お母さんにもらった髪飾りと一緒に大切に仕舞っておいた、宝物。
「喜んでくれるといいな」
話す時の事を考えて思わずそう呟くと、皆手を止めて口々に言ってくれた。
「お喜びになるに決まっています!」
「私共にも、御館様の幸せそうなお顔が容易に思い浮かびますもの」
「それにお二人だけでなく、我々国民にとっても喜ばしい事ですわ」
「エブラーナの民は等しく、お二人をお祝い致します!」
「御婚儀の時の御家老の喜ばれ様を思えば、この事を御存知になれば今度は本当にどうなる事やらわかりませんわ」
そこで少し焦った叱責がじいやさんの事を口にした彼女に飛んだけれども、私は我慢出来ずにくすくす笑ってしまう。
それから、皆もつられたように笑いだした。
いつの間にか話は、エッジの反応どころかエブラーナ国民全体に広がっていて。心から喜んでくれているのがひしひしと伝わってきて、私はとても嬉しかった。
けれどそうやって明るい笑顔で言ってくれる彼女達に、私はちゃんと応えられるのかと不安にもなる。
いずれこの日が来る事はわかっていたし、楽しみにもしていたのに。
いざ目の前に舞い降りたそれを前にして、どこかで怯える私がいる。
けれど、迷ってはいない。
ただ、ちょっと、怖いだけ。
『……ほら、笑って笑って』
エッジにそう言った「私」は、決めたのだから。
「リディア様、御館様ですわ」
そう声を掛けられたものの、返事をする間もなかった。
「リディア、支度は済んだか?」
「えぇ、見ての通りよ」
控えていた皆は、一斉に片膝をつく。
立っているのは私とエッジ、だけ。
久しぶりに正装を着ているエッジは、何だか大きく見える。
昔正直にそう言ったら、変な感想だなって笑われたっけ。
もちろんエッジは私よりもずっと背が高いし、たくさんのものを背負っているんだけれど。
「御館様」のエッジを見ていると、いつも以上に思うの。
あぁ、ずっとこうやって見ていてくれたんだね、って。
私は、なかなかその大きさに気づけなかった。
エッジに正装は似合わないねって笑った、頃。
「……なら、行くか」
踵を返すエッジの背中に従って、私も部屋を出る。
出て、先導の人でもいるかと思いきや――誰もいない。
「あれ? このまま二人で行くの?」
「何か問題でもあるか?」
私の反応なんてお見通しなのか、振り返ったエッジはそう答える。
「ううん、全く問題ないよ。むしろ、好都合かな」
「好都合?」
けれどね、私だってたまには余裕なところを見せてみたい。
「誕生日おめでとう」
背伸びして伝えた言葉は、何度も言った事があるけれど。
「――皆よりも先に、こう言えるでしょう?」
「……確かに、好都合だ」
そうやって笑ってくれる度に、それだけで幸せになれる。
心の中に渦巻く不安を、少しの間忘れさせてくれる。
「久しぶり、リディア」
「ローザ!」
祝宴が始まると、真っ先にローザが傍に来てくれた。
「今日は来てくれてありがとう」
一通りの近況を語り合った後、ローザが少しだけ言いにくそうに尋ねてきた。
「……クオレは?」
「まだ、ちょっと……」
私は「娘」の事を想う。
行儀作法はあらかた身についても、セシルも一瞬間違えたという彼女達と同じ存在であるあの子の容姿が招くものは、いろいろあって。
「そう。……あとで会えるかしら?」
「もちろんよ。クオレも喜ぶわ」
ローザはいつも気遣いが細やかで。
心なしか普段より明るい声で、話題を切り替えてくれた。
「それにしても、大所帯でごめんなさいね」
そう言って、ローザは少し離れたところを見やる。
視線の先にいるのは――セシルとセオドアと、カインだ。
「――全くだ」
びっくりして振り返ると、誰かの挨拶を受けていたはずのエッジがいつの間にか後ろに立っていた。
「ちょっと、エッジ!」
「セオドアはともかくとして、あいつまで呼んだつもりはないぞ、俺は。……大体、誕生日程度にどこまで金をかける気なんだ、じいは」
「じいやさんも言っていたじゃない、今年はきりもいいし、おめでたい事は盛大に祝った方が国にとってもいいだろうからって」
「それはそうだけどな……まぁ、相変わらずあれで来るバロンの度胸だけは褒めてやるよ」
最後だけ少し声を落として、エッジも三人の方を見やった。
バロンの赤き翼は、全武装を解除した。
ダムシアンと協力して資材を運んだり、隊員達が各地の支援に赴いたり。
けれど武装は解いても、その翼は赤いままで。
セシルの十数年の治世を信じる人もいれば、空に翻る赤に未だ複雑な想いを抱く人もいる。
エブラーナにも、やっぱり忘れられない人達はいるんだと、エッジが言っていた。
軍備を積まないなら、もっと小型艇に切り替える事も出来る。
けれどセシルはそうしない。
あの戦いでまた利用されてしまった色を塗り替える事なく、赤き翼は積極的に各地の空を飛ぶ。
一度は壊滅の憂き目に遭った部隊を再編成して、カインを部隊長に第一王子であるセオドアも所属する集団として、いろんな意味を背負いながら。
……それだけじゃない。
「ダムシアンにもミシディアにも、あの格好で行くんだろ?」
「……そうよ。セシルが、そう決めたから」
三人共、武具こそ身につけていないものの、一目で軍装とわかる格好だ。セシルだけ指揮官の印みたいな上着を羽織っているから、余計に目立つ。この場でただ一人儀仗を帯びているエッジよりも、かもしれない。
「軍事国家としての罪も、誇りも、忘れるわけにはいかないから……って」
「笑って酔えるようになったんだ、それでいいんだろうよ」
月を止めてひと段落ついた後、バロンを守り切れなかった事でセシルは随分と思い悩んでいたらしい。自分が敵の手に落ちたせいで……って。セシルが悪いんじゃないのに。
けれど今は、そんな事を微塵も感じさせない。
私達の結婚式の時は少し――そう、少しだけ表情に影があったけれど。
『本当におめでとう。それから――ありがとう』
『何一人で完結してるんだ』
『違うよ。……嬉しいんだ。こうして君達を祝う事が出来て、本当に』
「人の国の祝い事で暗い顔をしているよりは、よっぽどましだ……なぁ、リディア」
「……え? あ、うん……」
――びっくりした。
とにかく、正装を纏っていたあの時よりも、軍装の今の方がもっと堂々として見える。
「バロンはセシルの誕生日を祝ったりしないのよね」
「そうね。一応先王陛下に決めて頂いた日があるのだけれど……まずセシルが嫌がるだろうし、エブラーナやダムシアンみたいに直系の王を戴く国とはまた違うもの」
ローザの言葉に、エッジは腕を組んでため息をついた。
「俺も面倒で仕方ないんだがな……っと、噂のセシルがこっちに来るぞ」
確かに近づいてくるセシルの傍には、心配そうに見上げる息子と、一歩引いたところで眉根を寄せる親友がいる。
「そういえば……セシルって酒飲めたのか?」
旅をしていた頃は、一緒にいてもあまり飲む機会はなかったからな。
そんなエッジの言葉に、私も思い返してみる。
私自身もあまり飲まなかったからよく知らないけれど……こういう場でも、少しくらいしか飲んでいなかったような?
「……今日は少し飲みすぎているようね」
「おいおい、大丈夫かよ……」
「ちょっと口数が増えるだけよ」
「本当だろうな……」
セシルにひらひらと手を振りながら、エッジが呟く。
「皆に会えて皆でおめでとうって誰かを祝えるのって、素敵な事じゃない――またよろしくお願いしますわ、エドワード陛下」
「……っ、今更そんな呼び方をするな、気味が悪い!」
「あら、でも他国者の私が御館様とお呼びするわけにも――」
「次はバロンでやっておけ!」
「ふふっ……」
皆それぞれの場所と役割があって、昔ほど頻繁に会えるわけじゃない。
そんな中、こうやってお祝いをするために集まれる。こんな他愛無い言い合いを聞いて笑える。
なかなか自由の利かない身分にはなったけれど。
ローザの言う通り、素敵な時間だよね。
セシル達がやって来て、程なくしてギルバートやヤンも顔を見せる。
今日はエッジを祝う日。
生まれてきてくれて、ありがとう。
「疲れた……」
「お疲れ様」
私室に戻ると、エッジは開口一番にそう呟いた。
「『ちょっと口数が増えるだけよ』って、あれのどこがちょっとなんだ? 言った本人も負けずにしゃべるだろ。まぁ、あれは飲んでるくせに素面に見えて逆に……とにかく、幻獣の次は年下でうるさい舅と姑が出来た気分だったな」
「エッジも、今日はよくしゃべってたじゃない」
祝宴の最中も今も、そう言う割には楽しそう。
「……こういう事ひとつにもいろいろと面倒がある身ではあるけどな。祝ってもらうのは、いくつになろうと悪くない」
「ならセシルとローザの事悪く言っちゃ駄目よ」
「あぁ、ちゃんと感謝してるさ」
ふいに、エッジの声が低く響いた。
「――おかげで、こうやって二人きりになれた時の価値がよくわかる」
「わわ……っ」
ぐっと手を引かれたと思ったのは一瞬で、立っていたはずの私の身体は、いつの間にか椅子の上に収まっていた。
こういう手際は、妙にいい。例えばセシルの戴冠式の時みたいに。
「お前さ、今日どうしたんだ? いつにもましてそわそわしてただろう?」
察しも良すぎたりする。
椅子に腰かけた私の目線に合わせて覗き込んでくる仕草は、旅をしていた頃とそんなに変わらないのだけれど。
「いつにもまして、ってのは余計よ。……あのね」
私が立ち上がるまでもなく、エッジが一歩近づいてくれる。
その耳元で、私は囁く。
『私共にも、御館様の幸せそうなお顔が容易に思い浮かびますもの』
エッジの鋼色の目が、大きく見開かれて。
「そう、か」
私の予想を全部引っくり返す答えが返ってきた。
「それで冴えない顔をしていたのか」
ゆるゆると瞼がおりるのを、私はただ呆然と見ている。
「気にしても始まらないだろう? ……お前が悪いわけでもないしな」
「エッ…ジ……?」
私、そんな事ちっとも言ってない。
あなたに伝えたかった事を、伝えただけ。
「ほら」
ふいに額を小突かれて、ぐるぐるしていた思考から引き戻される。
「そんな顔するなって」
出会った頃にはなかった、傷を負った切れ長の瞳は、
相変わらず深く、深く。
「元気のあり余ってる俺との子供なんだから、大丈夫さ」
結局いつも私が泣くんだよね。
いつも、エッジは私を見ていてくれてるんだよね。
「あり、が…と……」
小さな村の中で婚姻を繰り返した血は、濃く、重く。
だからこそ私は皆と一緒に戦えたのだけれど。
誰かと一緒に歩む未来を想うようになると、
どこかに、付きまとうんじゃないかって。
「ありがとう……っ」
「こっちこそ最高の誕生日祝いを、ありがとな。……口止めしてたんだろ? いくらなんでも、タイミングがよすぎだ。あと、その簪も。いつまで経っても使う様子がないから気に入らなかったのかと――」
「――もう、そんなわけないじゃない!」
一本挿しのそれは、装飾こそ少ない質素なものだけれど、私の知らないエブラーナの十数年を知る木から造られた――宝物。
抱き寄せられたはずみで、下がりが小さく音をたてた。
「迷ってるわけじゃないんだろ?」
「……うん」
ミストは新しい歴史を刻もうとしている。
私も、そうありたい。
だから迷いはない。
エブラーナという国の事を考えると足が竦んだだけ。
ただ、ちょっと、怖かっただけ。
「なら俺は支える。それで万事解決だ」
耳元で囁かれる言葉に、
私は、ただただ、頷く事しか出来ずに、
ひとりにしないでと請うたあの日の事を、
同じ腕の中で、思い出していた。
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