DATE 2010. 8.15 NO .



 街の喧騒も、上層のざわめきも――下層の神託の盾兵達の行き交う音も、今し方通り抜けた扉を閉めると、消えた。
 ひんやりとした静けさがこのまま続くはずだった、が。

「……今度は何を飼い始めたんだ、ヴァン」

 かすかではあったが、それは確かに幼いイオンの耳にも届いた。

「さぁ、何だと思われますか」

 斜め前で先導するヴァンは振り返る事なく、逆にそう問い返す。

「獣の……いや」

 再び聴こえたその「音」は、イオンの表情をわずかに歪ませた。

「人の声、か――?」

「会って頂きたい『者』がいると、最初にそう申し上げましたでしょう?」

 いつの間にか辿り着いたやたら分厚い扉は、軋んだ音をたてて鍵穴を回す。
 そこでヴァンはようやく振り返り、お手本の様な微笑みを浮かべた。







 それは、少女だった。
 檻の中石の床に蹲った一糸まとわぬその身体は酷く骨が目立ち、色褪せた髪に全身くるんでしまえそうなほどに細く小さい。監禁され虐げられた哀れな少女――間違いなくそう思うだろう、耳が聴こえない者なら。

 聴力に何ら異常のない次期導師には、彼女の「音」が聴こえ続けているはずだ。
 声、というにはあまりにも獣じみた――細い喉がどうにかなってしまいそうなその音に触れて、6歳になるかならずかのこの少年は何を感じるのだろう?
 そんなくだらない興味が、ヴァンの脳裏をよぎる。

「――どうしたんだ、これは」

 だが少女とはまた別の意味で特殊な育ちである少年は、それほど動揺した様子もなく、淡々とそう問うた。

「フェレス島の生き残りで、今まで魔物に育てられていたのですよ」

「……そうか、僕より年上とは信じ難い発育の悪さだが、魔物と意思疎通が出来るなら、それを補って余りある」

 「フェレス島の生き残り」から、この少女が年上である事を。そして恐らく、普段の自分の振る舞いから、彼女には何らかの利用価値がある事を。――少年の推測は、何一つ間違っていない。
 普通は「魔物に育てられていた」に気を取られて驚くだけだろうに。

「とにかく、このままではどうにもなりません」

 識りすぎた少年と知らなさすぎる少女。
 たったひとつの事柄を識ったがためにここまで変わった少年のようにはいかないだろうが、今度はまっさらな状態から関わる事になる。少女は明らかに獣に馴染み過ぎていたが、少年と同じ抗う「ための」存在にする自信が、ヴァンにはあった。

「そうだな。魔物としか関われないままでは、結局魔物と変わらない」

 そう呟きながら、少年が檻に歩み寄る。
 ガシャン、と少女が檻を揺らす大きな音が響き渡った。

「……預言に飼いならされてたまるか……」

「――イオン様?」

「何でもない。……なかなか面白かった。何か進展があれば報告を」

「わかりました」





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